2013年12月10日火曜日

アメリカ西部の旅 ・追伸2012年6月9日

宿=友人宅

早朝4時過ぎに目が覚める。レンタカーの前部アンダーカバーの件が頭から離れない。うまく状況を説明できるのだろうか。
ウトウトしていたが6時過ぎに起き出して、フリーウエーでのトラブル状況や、その前日に道路上の異物を避け切れずにひいてしまったことを書いた文章をPCで用意することにした。


やれることは一応すませ、正午前、ガスを給油して、レンタカーへ向かう。借りていながら一度も使うことがなかったカーナビを持っていくのを忘れるチョンボで慌てて引き返した。
カウンターで書類とキーとカーナビを渡すと、いきなり「5000マイル以上という走行距離が多すぎる、カリフォルニア州だけの3週間でこんなケースはない。重大問題だ」予想外のところからビーン・ボールが飛んできた。「一度もカリフォルニア州だけと言った覚えはない。そちらもどこへ行くのか、聞かなかったじゃないか。今回はユタ、ワイオミングからアリゾナを回って来た」こちらも反論。「マネージャーに相談する必要がある」と言って事務所に入っていった。
予想外のところで風雲急、と思ったら、すぐに出てきて「オーケイ、じゃあ、車のチェックだ」拍子抜け。あっけなく予期せぬ第一関門突破。
いよいよ問題の車の立会いチェック。事務所から駐車場まで、歩いている間にプリントアウトしたペーパーを手渡し「あまり英語が得意ではないので、正確を期すためにトラブルの状況を事前のまとめておいた」といいながら、①リア・バンパー②フロントのアンダーカバー、と順を追って問題箇所を確認してもらい、文章を読んでもらった。係員は何も言わず軽く目を通し、車の状況を簡単に(本当にチラリと見た程度)確認し、凹み具合などを記入して終了。
「OK、グッドだ」と係員、何がグッドなの?さて、次はどうなる?再び身構える。
事務所に戻ると事故報告書を記入しろという。1箇所につき1枚で計2枚。事故の詳細部分については事前に用意したペーパーを添付すればいいと言われたので、実際には名前、住所・電話番号(ただし、なぜか日本ではなく友人のものを書くように言われた)サインなどだけ。書き終わると、マスターカードでいいかと確認され、なにやらプリントアウト。それにサインしろという。
見ると請求書&明細。金額を見ると申し込み時の予定金額通りの額が書かれていた。追加料金「ゼロ」。これって車体損傷に関する料金は発生しないってこと?

何か一言でもあるのかと思ったが、それもなし。この間の処理、極めて事務的、流れ作業のようにあっという間の事で、事務員は次の客の応対を始めている。
エ~これだけで終わり!?なにやらややこしいことをグチグチ問いただされたり、ネチネチ問題個所を調べまわされたりもなし?事故証明のようなものがないとだめなのだろうか、日本のレンタカーだと何万円とか10万までは免責とかあるから数百ドルは取られるかもなどなど、色んなケースを想定してビクついていたのが。すべて保険(LDW)であっけなく処理された。
思わず万歳!と言い出しそうになりながら、レンタカー屋から出たところで、ガッツポーズ。

ちなみに借りた車は「サブ・コンパクト」クラスの韓国・現代の「エラントラ」(1.6リッター)、支払ったレンタカー代金は丸21日分、総額1250.26ドルなり。もちろん、保険料や一度も使わなかったカーナビなどすべて込み。

19泊20日、5204マイルのアメリカ西部の公園をめぐるドライブ旅行、なにからなにまで、ズズズィ~と完了です。

=完=


2013年12月9日月曜日

アメリカ西部の旅
2012年6月8日

ツーソンTucsonを出てカリフォルニアCaliforniaへ、最後のドライブ。
I-10、朝のラッシュのフェニックスPhenix市街地を抜けると、後は砂漠の中を西へ真っしぐらでアリゾナ州からカリフォルニア州へ。州境のIDチェックのゲートにアタフタ。
サン・ベルナルディーノSan Bernardinoの手前辺りから、いよいよLA郊外。片道4~5レーンある車線を60~70マイルのスピードで切れ目なしに車が次々とぶっ飛ばしていく。
午後3時前、LA中心市街地付近で101 Ventura Hwyへ。ここからはLAに来るたびに通った懐かしの道。見慣れたこの景色に二人で思わず「帰ってきたゾ」-。

走行距離:550マイル

給油:$25 フェニックスの市街地へ入る前、Bapchule のシェルで  $20  パーム・スプリングPalm Springsの手前、Palm Desert の Arcoで。
昼食:Indianのサブウエーで$11.98



  朝6時半発、日差しはきついが爽やかな朝だ。モーテルの目の前がLA方面へのI-10の入口。慣らし運転の間もなくエンジン全開でインターステーツをフェニックスPhenix目指して走りだす。ツーソンTucsonからは110マイル、1時間半あまり。
  フェニックスPhenixの市街地へ入ったころで朝のラッシュ。飛行場のすぐ横を抜けると市街地に入る。目に入るビルの数だけでもツーソンTucsonより大きな町。フェニックスに隣接するメサMesa 、テンペTempeの町も古い日本のプロ野球ファンなら、懐かしい地名かも。


  今やキャンプ地といえば沖縄だが、1980年代に日本を離れてアメリカの暖かい土地で海外キャンプがはやった時期があった。アリゾナ州の、メサMesaには横浜大洋(現ディー・エヌ・エー)、テンペTempeは阪神、さらにユマYumaでヤクルトが春のキャンプを張っていたことがあった。
  フェニックスPhenixからI-10は西へ向かってLAまで、乾燥した半砂漠地帯を150マイル足らず、ほぼ直線が続く道路。


 10時半前、料金所のようなゲートが現れた。アリゾナ州Arizonaとカリフォルニア州Californiaの州境。州を越えるにもパスポートが必要なんだ。簡単なIDチェックを受け、ざっと3週間ぶりでカリフォルニア州に戻ってきた。

  超巨大なトレーラー・トラックや、大きなバイク、デカイSUVなどが、ほとんど住む人もない不毛の半砂漠地帯の2車線を爆走する光景が100マイルほど続くと、緑の町並みが近づいて来た。地図を見るとパーム・スプリングスPalm Springsに近い。インディオIndioという町の高速沿いにある大きなショッピング・センターで早めの昼食。
 相棒の希望でsubwayへ。パンを決め、メーンの具を決め、さらにトッピングの野菜もお好みでチョイスと、なかなか面倒なサンドイッチ屋さん。2、3人ほど注文の様子を見て、列に並んで、無事、ゲット。最後にポテトチップス付きかどうか聞かれたのが想定外。これが日米の食文化の差ですかね。本当にアメリカの人って、ポテトを油で揚げたのが好きです。
 パーム・スプリングPalm Springsの郊外あたり、緩やかな谷間にさしかかる付近で、巨大な風力発電のプロペラ群に遭遇。風の通り道にあたるのでしょう。風力発電の巨大なプロペラは日本でも各所で何度も見ていますが、この集積度は圧巻。ざっとみただけでも数百は軽くありそう。太陽光発電だって、その気になれば今、100マイルほど走ってきた半砂漠地帯に並べただけでもすごいことになります。
 北のSan Bernardino National Forest と南の Mt. San Tacintoの山塊との切れ目の谷間のようなところをしばらく走ると、いよいよサン・ベルナルディーノSan Bernardino、グレートLA市街地の東の端の町。ここからは別次元の道路事情が始まる。
  2車線が4車線になったのが昼食を食べたIndio、それが分岐点の少し手前で5車線になり、分岐点を過ぎるととうとう10号だけで6車線。さらに、ここで10号と少し北を並行して走る210号(Pasadenaなどを通過してLA市街地の北を抜けてLAの西、ベンチュラVentura方面へ抜けるバイパス的な高速道)が分岐。その巨大な高速道路網を60~70マイルのスピードで切れ目にしに車がぶっ飛んでいく。アメリカはやっぱりすごいところです。


 100キロを越すスピードで走りながら英語の地名標識などを懸命に追って、間違ったレーンへ入らないよう、早めにレーン移動。一方で、周囲は片道4車線、5車線、6車線の道路を、わずかな車間距離のスペースに方向指示器も出さずにガンガン右から左から車が交錯。ちょっとオタオタしてるとガンガン追い抜いていく。乗用車だけでなく、大きなバスまでがガンガン。

 最も左のレーンは、朝夕のラッシュ時、2人以上乗車している車だけが走行できる「快速」路線だが、快速だけにぶっ飛ばす。私も何回かチャレンジするが10分も持たない。すぐに手に汗がべっとり、普通のレーンに戻ってしまう。かといって、右の車線を走っていると、分岐路線だったりするから、こっちも油断がならない。




 とりわけ、LA中心街は道路の合流・離散が激しく、I-10からSanta Ana Fwy、Hollywood Fwyを経て101 Ventura Fwyへ合流するまでの十数マイルは、目指すコースから外れないようにしながら車の流れに乗るのに必死だ

 ユニオン・ステーションUnion Station、チャイナタウンChina Town、ドジャー・スタジアムDodger Stadiumなどが集まる中心街にやってきたのが3時前。今日は金曜日、早めの夕方のラッシュがそろそろ始まる時間帯だった。Ventura Fwyに入り、慢性的な渋滞で知られた405 San Diego Fwyと交差するところで渋滞に捕まってスローダウン、トロトロ運転に、思わずホッ。



 後は何度か通っている道、しかも途中で合流・分岐もほぼなし。ここまでくれば帰り着いたも同然、少々の渋滞もまるで気にならない。



 午後4時52分、友人宅に到着。無事完走だ


 5月20日早朝出発以来、19泊20日、総走行距離5204mile(8326.4km)、旅した州:カリフォルニアCalifornia、アリゾナArizona、ユタUtah、アイダホIdaho、ワイオミングWyoming、コロラドCorolado
 訪れた主な公園
 国立公園=10:グランド・キャニオンGrand Canyon、ザイオンZion、ブライス・キャニオンBryce Canyon、キャピタル・リーフCpital Reef、キャニオンランズCanyonlands、アーチーズArches、イエローストーンYellowstone、グランド・ティトンGrand Teton、化石の森Petrified Forest、サワロSagwaro
 国定公園(national monument)=3:ナチュラル・ブリッジNatural Bridge、グランド・ステアケース=エスカレンテGrand Staircase=Escalente、キャニオン・ディ・シェイCanyon de Chelly
 州立公園=4:グースネックGooseneck、コダクロム・ベイスンKodacrome Basin、ゴブリン・バレーGoblin Valley、デッドホース・ポイントDead Horse Point
 その他=5:モニュメント・バレーMonument Valley、アンテロープ・キャニオンAntelope Canyon、
グレン・キャニオン・ナショナル・リクレーション・エリアGlen Canyon National Recreation Area、ディクシー国立森林公園Dixie National Forest/Red Canyon、ハッベル・トレーディング・ポスト国定史跡Hubbell Trading Post National Historic Site  

 相棒と私の長年の夢だった旅。行きたかったところ、見たかったものも、ほぼ達成。スピード違反未遂があったり、高速で車体トラブルにヒヤリとしたり。その他いろいろあったけど、人身事故、大きな事故、病気もなく終えることができたことがなにより。

 いい旅でした。

 唯一の気がかりは自損事故の処理、問題は一体いくら取られるのか。フロント・バンパー下のカバーのトラブルはどう申告するのがいいのか…。気になることはあるが、それは明日、レンタカー会社へ行かない限りどうしようもない。とりあえず、今日はうまいビールに、乾杯!です。



アメリカ西部の旅
2012年6月5日

朝早く、Chinleの町に隣接するキャニオン・デ・シェイ公園Canyon de Chelly National Monumentへ。
穏やな緑の谷のサウス・リム・ドライブSouth Rim Driveをオーバールックoverlook(展望台)を訪ねながら東の端、スパイダーロック・オーバールックSpider Rock Overlookまで。
US191に戻って化石の森Petrified Forestを目指して南へ。Ganadoという小さな田舎町でハッベル・トレーディング・ポストHubbell Trading Postに立ち寄り。国立公園National Parks Serviceが管理する歴史的記念物Historic Site、西部開拓時代の交易所Trading Post。思いのほか印象深い。
Chembersの町でI-40、西進して311番出入り口がペトリファイド・フォレスト(化石の森)Prtryfied Forest National Park国立公園。公園を北出入り口から南出入り口のUS180まで、灼熱の下のドライブ&トレイル。化石になった巨大なかつての樹木が乾燥しきった台地のあちこちでゴロゴロ転がるちょっと不思議の世界。灼熱のそんな化石のトレイルも歩きました。
公園からUS180
、AZ61を経て山道をショー・ローShow Lowまで。この旅で宿探しをするまで、存在さえ知らなかった高原の町はチェーンのスーパーやホームセンターなども並ぶ大きな町だった。



走行距離=252マイル


宿:アリゾナ州 ショーローShow Low  Motel KC  $67.61

給油:$20  Ganadoの町で

夕食: – (モーテルの部屋でレトルトのカレーとスーパーで買ったサラダ) 

買い物:ヨーグルト、夕食用のサラダなど$14.4







  昨日、わざわざ頑張ってロング・ドライブしたのには、ユタ州方面からやってくると、キャニオン・ディ・シェイ公園の周辺には、チンルChinleを除けば100マイルほど宿泊施設がない、という事情もある。



  でも昨日頑張った分、今日は100マイル分、1時間半~2時間のゆとりができる。このゆとりを使って、今日は公園を2カ所回るプランにした。そんなわけで、今日も少しあわただしい。








  朝いちばんでホテルのすぐそばにあるキャニオン・ディ・シェイ公園を訪ねる。公園ゲートを抜けるとすぐに道が分かれているが、その谷の縁を走る右手の道、サウス・リムの道路を巡り展望台を順に訪ね、谷を遠望する。








 公園は200メートルほどの断崖の谷が北と南にV字型に20~30キロほど続き。谷はネイティブたちが古くから畑や牧畜の地として開拓、ナバホ族がこの地にやってくる以前、アナサジと呼ばれる人たちが断崖の窪みに築いた家も遺跡として残っている。
 


  谷と言えば、山の峰々があり急峻な谷がある。穏やかな谷は、山もなだらかな丘陵地になってしまう。そういう谷の景色しか知らなかった私には、アメリカの谷の景色は、実際に目にするまでうまく想像できない景色だった。


  そのチャンピオンがグランド・キャニオン。

  一面の真平らな大地が隆起し、高地となり、そこを川が流れ、高地を削り取って深い谷を作る。雨が少ないので、先がとがった山々がなく、真平らな台地からいきなりドカンと川が削り取った深い谷となる峡谷が生まれる。

  その後、アリゾナ北部からユタ州南部にかけて広がる、乾燥地帯の高地で次々と同じような谷の風景を目にした。ナチュラル・ブリッジNatural Bridgeもそう。グレン・キャニオン・ダムGlen Canyon Damの下流で見たホースシュー・ベンドHorseshoe Bendもそう。少し離れて見ると、ただただ広大な平原が、近づいていくとその一部が突然消え去り、深い谷が現れ、その谷の向こうにはまた平原が広がる。なので、高台の平原では馬などを飼っているようで、放牧場になっていることもある。



  キャニオン・ディ・シェイCanyon de Chellyもそういう谷だった。


  しかし、グランド・キャニオンGrand Canyonや、ホースシュー・ベンドHorseshoe Bendなどと決定的に違うのは、谷の底が広く明るく開け、流れる川の水は豊かでなく枯れ川に近いが、緑は豊かだ。



   ユタ、コロラド、アリゾナ、ニューメキシコ4州の州境が1点に集まるフォー・コーナーズFour Corners周辺、ちょうど現在の「Navajo Nation」あたりを中心に活動していた古代のネイティブ、アナサジAnasazi族はこういう地形が好きだったらしく、メサ・ベルディMesa Verdeなどにも、キャニオン・ディ・シャイCanyon de Chellyと同様の遺跡が残っているそうだ。




 断崖の家といえばコロラド州メサ・ベルディ国立公園Mesa Verde National Parkのそれが名高いが、ユタ州で一度、同じような遺跡に遭遇している。5月22日に訪ねたナチュラル・ブリッジ公園Natural Bridgeで、枯れ川の底から立ち上がる断崖の窪みに家屋跡を見た。ナチュラル・ブリッジNatural Bridgeは川幅が狭く、隠れ谷という印象だったが、Canyon de Chelleyは川底というよりゆったり穏やかに広がる谷が造る優しい風景の中にある。



  キャニオン・ディ・シェイCanyon de Chellyの谷をもう少し正確に描写すると、公園西端のエントランス・ゲートentrance gateは川と同じ高さ。そこから東に向かうにつれて台地は徐々に高度を上げ、数マイルほどで、川底から200mほどの高度になる。

  ゲートを入るとすぐに北と南の二股に道が分かれているが、北の道を取ると道は川を渡ることになり、ゲートからの道はダラダラと登り道で、西から東へ移動するにつれて展望台の高度が上がっていく。


  ゲートから見どころの多い南の道を取る。まずTunnel Overlook。展望台といいながら、まだ谷はそれほど深くなく、谷へ続くトレイルも簡単下っていけそうだ。だから展望もあまりよくない。谷へ下りていくトレイルがあったがこちらは「立ち入り禁止」。




  まだ7時半を少し回ったところ。ナバホnavajoの子供やお兄さんが、地面に敷物を広げ、敷物の上やボンネットの上に陶器や薄い石片に画いた模様、装身具などを並べ始めていた。手作りのお土産。私たち以外にも1組、2組、観光客でやってくる。朝が早い。モニュメント・バレーでも、ビューポイントごとに、1カ所“1店”同じようにお土産品を並べ、店番をしていたナバホの少年たちがいた。みんな、積極的に声を掛けるわけでもなく、おとなしく座って淡々と客を待っている。商売っ気がないというか、こびないというか。ここも同じ。静かに客を待っている。






  すぐ隣のTsegi Overlookから、この谷らしい風景が現れる。垂直に立ち上がる断崖の下に緑あふれる明るく穏やかな谷に柔らかな朝日がふさわしい。丁寧に耕された畑地、牧草地、川筋に沿って緑豊かな並木。その谷間をゆっくり風が吹き抜けていく。谷底や周辺の台地には今もナバホの人たちがたくさんいて、人の営みが自然と溶け合っているのもやさしい風景を作り出している。まるで桃源郷を見つけたトレジャーハンターのような気分だ。



  Junction Overlookまで来ると、谷がさらに広がる。Y字型を描く谷の北と南の谷が合流するのがこのJunction Overlook付近。


  次が南の谷に沿ったWhite House Overlook。谷からの高度がさらに上がる。その足元の断崖の中ほどに、アナサジAnasaziの人たちが造った居住跡White Houseの遺跡がある。この展望台は遺跡まで下っていけるトレイルの起点にもなっている。




  谷はナバホnavajoの人たちの所有地で、きれいに耕され、観光客の私たちが勝手に歩き回ることができない。そのかわり、谷を訪ねるツアーがあるらしい。しかし、このWhite Houseの遺跡だけは観光客も自由に歩いて訪れることができるそうだ。(私たちは「パス」しましたが)



  次のSliding House Overlookも断崖の足元の中ほどにSliding Houseと名付けられた遺跡がある。説明板よると、ここは紀元900年から300年間にわたって使われたというから、平安時代あたりになるわけだ。


カラリと照りつける日差しの下、風に乗って緑豊かな谷をゆっくり滑空している鳥をぼんやり見下ろしていると、ふと、目の前の時間は数百年の間、止まったままだったのではないか、とさえ思えるほど。




  南側、最後の展望台がSpider Rock Overlook。スパイダーロックと名付けられた、谷から2本の煙突のように突き出た岩が景観にアクセントをつけている、キャニオン・ディ・シェイ公園で最も絵になる展望台。

  ここで出会った中高年のカップルに、写真を撮ってもらったり、撮ってあげたり。「英語がうまいよ」なーんてね、アメリカの人って、さり気ない社交辞令がうまい。いつも感心することだが、馬鹿正直な日本人にはちょっとまねができない芸当。




  一気にエントランス・ゲート付近まで戻り、ノースリムへ。一番手前のLedge Ruin Overlookまで行ってみた。当たり前のことだが、谷の風景は北から見ても南からでも、大きな違いがあるわけではなかった。

  このあたりで、キャニオン・ディ・シェイCanyon de Chellyから撤退。次のペトリファイド・フォレストPetrified Forestへ向かうことにする。

  ガイドブックやネットで情報収集しても、しょせん机上のプラン。ぶっつけ本番の旅なのだから、現地に立ってみると、予想外ということが多々ある。グランド・キャニオンGrand Canyonや、モニュメント・バレーMonument Valley、イエローストーンYellowstoneなど、情報量が豊富な公園でもそうなのだから。そうでないところは予定外の連続。

   例えば、グランド・ステアケース・エスカレンテGrand Staircase-Escalanteやキャピタル・リーフCapital Reefは、普通の乗用車では、公園内のごくごく一部しか見ることができない。本当の醍醐味は、四輪駆動車で未舗装路をたっぷりと走った先にある。時間と道具が必要ということを知った。

  道具はいらないが、自分の足で歩く時間があればもう少し違ったものを見ることができたのではないかと、少し心残りなのがキャニオン・ランズCanyonlandsと、ここキャニオン・ディ・シェイCanyon de Chellyの谷の風や空気を感じてみたかった。


 Chinleの町の信号のあるUS191に合流、ここから南へ下り、I-40を目指す。

 
 半砂漠の荒野を飛ばしていると、地平線の彼方が赤く霞んできた。砂嵐?近づくと、小さな竜巻が赤い砂舞い上げている。大した竜巻じゃなかったが、たまたま竜巻が道路を通り過ぎた直後を走り抜け、右手にミニ竜巻と間近で遭遇。



 
  Burnsideという小さな集落を過ぎ、Ganadoの町へ。予定には入れてなかったが、Habbell Traiding Postという国立歴史記念物 National Historic  Siteの交易所に寄ってみる。時間があれば寄ってみようと、リストアップしていたが、US191のすぐそばにあったので寄り道してみた。


  車を降りると、頭上から照りつける太陽の熱エネルギーが、昨日までのワイオミングとは明らかに違う感じ。湿度がないから、粘りつくような不快な暑さはなく、そのかわり体中を熱線が照射し瞬く間に体幹まで熱せられるような暑さ。Chinleの町やCanyon de Chellyは夕方と朝方だったので気が付かなかったが。

  トレーディング・ポストTrading Postは赤みを帯びた石を積み重ねた重厚な平屋建て。入口ドアの最上部に立派な角の牛?の真っ白な頭部の骨。その下にはネイティブの若者のプロフィール像。

  その時、偶然、店からネイティブの子供が老女の手を引き、荷物を抱えて出てきた。この場所で、このタイミングでこの配役。まるで、映画の1シーン。思わずシャッターを押した。





  店の内部は、外の暑さがうそのよう、予想外に居心地がいい。冷たいドリンク類から、壁の棚に缶詰や薬、天井などから馬具関連、さらに銃までがぶら下がり、ところ狭しと西部での生活必需の雑貨品が並ぶ。








   その隣の小部屋ではネイティブたちが作ったカーペットや陶器、装身具などが並んでいる。


  かつてのトレーディング・ポストの様子をできる限り保ちつつ、現在の人の買い物もできる店、という感じ。そうそう、サウスパス・シティで見た復元「オールド・タウン」のゼネラル・ストアと雰囲気がよく似ている。





  さらに、店の隣には倉庫、その先は鍛冶屋や飼料などを置いた馬などの小屋や囲い(corral)などが一続きになって並んでいる。人間だけでなく、蹄鉄を打つ鍛冶屋から馬具や馬車など、馬=交通のメンテまで賄った。

  トレーディング・ポストは当時の生活必需品がそろった場所であり、ネイティブたちから作物や毛皮などの買い付けもした文字通りTrading交易の場所だったという。






  歴史をちょっと調べてみる。すると、アメリカ政府によって、先祖伝来の土地を追い払われ、アパッチapache、コマンチcomancheなどの種族とともに強制的に移住させられていたナバホnavajo族の人たちの「Long Walk」と呼ぶ悲しい歴史があったことが分かる。

  1868年、やっとニューメキシコ州の居留地から、故郷の地に戻ることを認められたナバホnavajoの人たち、このGanado周辺などに定住。今の「Navajo Nation」が生まれる元になった、という。


  この店の主だったハッベル氏Habbellは、ナバホnavajo族の人たちがこの地に戻ってきた10年後にここを手に入れ、商売を始めた。トレーディング・ポストtrading postを何軒も持つ実業家だったハッベル氏Habbellは、商品を売るだけでなく、ナバホnavajo族の人たちたちが造った織物や焼き物、宝飾品などを積極的に買い付け。それがナバホ族の生活の糧になったらしい。1967年に、ハッベル家Habbellから国立公園が買い取り、歴史記念物 National Histric Siteとなり、National Park Service(NPS)の手で現役の交易所として運営されている。




  Ganadoの町の中心街でUS191は右折、後は乾燥した草原の大地を一直線に貫きChembersという小さな集落へ。ここでインターステーツI-40にのる。

 日本だと、一般道路と接続するインター・チェンジはちょっとした町だが、ユタ州やアリゾナ州ではガス・ステーションさえない無人の荒野に、一般道と接続する出入り口だけがあるというところが決して珍しくない。こういうところはインター・チェンジの番号だけで名前はない。そういうことではChembersという名前がついているだけでもまだまし。

 333番のChembersから西行きで311番口まで20マイル足らず。ペトリファイド・フォレスト国立公園Petrified Forest National Parkのゲートがある311番は「Petirfied Forest」の看板があり、公園へ続く道が乾燥した草地に敷かれ、その道を行くすぐ北側に公園事務所のわずかな建物が見える。sそれ以外は町も集落も、店一軒すらない。国立公園のゲートがあるっていうのに、名前もない、ただの311番IC。


  この旅の最初で説明したように、今回は国立公園の年間パス(80ドル)を購入しているので、カードとID(パスポート)をゲートで提示するだけ。このパスを使うのも、予定ではツーソンTucsonのサワロ国立公園「Saguaro National Park」と、さらに余裕があればメキシコ国境に広がる「Organ Pipe Cactus National Monument」にも行ってみたいから、最大でもあと2回。ずいぶんお世話になりました。

  化石の森公園Petrified Forest National Park内に入る。まずはPainted Desertから。雑草も生えない灰色や赤茶色の砂状の丘をめぐる。


   ユタ州やアリゾナ州北部などの、さらに色鮮やかな荒涼とした岩や砂状の丘陵が造り出すすごい景色を見慣れた肥えた目にはちょっと単調すぎて物足りない。

  第一、お目当ては化石になった大木が、ゴロゴロ転がるという「化石の森」の光景だが、ここにはない。


  すごい日差しの中で、赤茶色をした四角い土まんじゅうのようなPainted Desert Inn National Historic Landmarkの建物が目を引く。この建物、ニューメキシコNew Mexico州のサンタフェプSanta FeやアルバカーキーAlbuquerqueあたりの観光写真などでよく見かけるタイプ。プエブロ・リバイバル・スタイルPueblo Revival styleと言うんだそうだ。こんな建物があるだけでアリゾナArizona、ニューメキシコNew Mexicoらしい風景になる。

 

   1924年に宿屋として建てられたものが、一帯が国立公園組織に組み入れられた1930年代後半に、現在のようなプエブロ・リバイバル・スタイルPueblo Revival styleに改築されという。今は文化関係の展示物のミュージアムとブックストアとして使われているので気軽にのぞける。


   お目当ての化石の森を目指して南へ向かっていると、意外なところでオールド・ルートold route 66と再会。旅のスタートの日、5月20日にOakman、Kingmanと回ってSeligmanへ(そういえば、manのついた町ばかりでしたね)、I-40に沿って、ルートroute 66の町を訪ねたのに、すっかり失念していました。

   ここから60マイル、1時間ほど東へ行くと、歌にも出てくる「Gallap, New Mexico」。

    雑草が生えた大地に、わずかな窪みが真っ直ぐ西へ、東へ伸びているのが今も分かる。その窪みに沿って電信柱が続いている。かつてのルートroute 66が敷かれていたところだ。シカゴChicagoからロサンゼルスLos Angelesまで1週間もかかった時代、Painted Desert Innは格好の休憩所でもあったらしい。古い車のレプリカと、route 66のプレートの前で、次々に記念撮影する私たちと同年配のアメリカンたち。うれしそうに、シャッターを押してくれと頼まれ、ついでに私たちも撮ってくれる。楽しく気のいい人たちだ。




   道路I-40を越し、さらに少し行ってSanta Fe Railwayの鉄路を跨ぐ。この鉄道も、5月20日以来の再開。国道が走り、鉄路が走る。アメリカのシンボルであり、繁栄を築き上げた大動脈は確かにここを流れていたのだ。



   鉄路のすぐそばに先住ネイティブたちの住居跡や岩に絵などが残るPuerco Pueblo の遺跡やNewspaper Rockの遺跡がある。



   高台の展望台にある双眼鏡や丸い鉄パイプの筒をのぞくと、離れた岩肌に描かれた絵が見える。丸い鉄のパイプは望遠鏡ではないが、なるほど、ピンポイントで絵の描かれた場所が分かる。別々の方角を向いたパイプが何本もCanyon de Chellyなどでも展望台にあったが、単純な仕掛けで、効果抜群。





    駐車場へ引き上げたところで“事件”を目撃。若い男女の二人連れ、男の方がパーク・レンジャーpark rangerに厳しく問い詰められている様子。確か、展望台から出て絵が描かれた岩に近づいたりしていた若者だったように思う。男はかなり言い訳しているようだが、レンジャーは断固として受け入れない。女性の方はふてくされて、離れたところで座り込んでしまった。絵にいたずらでもしていたのだろうか。“現行犯で連行”され、これから調書でも取られそうな勢いだ。

   この公園は、かつて、化石になった木が、宝石として採取されたという歴史があることから、石などの持ち出しが禁止され、厳しく監視されていると聞いた。事実、この後、公園から出るときには、持ち出しがないかチェックも受けた。こんな厳しい公園、最初で最後。彼にはどんなお仕置きが待っているのだろう。

  Blue Mesa 。小高い丘からりちょっと青みを帯びたような灰色の砂岩丘に転がる化石の木を眺めながらぐるりと回り、展望台のある高台やってきた。暑い。時計は午後3時。ビビル相棒は、暑さにやられ、ノビル相棒になって、エンジンをかけたままでクーラーの効いた車から出てこない。



  広い展望台から見下ろすと、数十cmか1、2mほどの茶色の岩?丸太?が砂場に転がっているのが遠望できる。あれが化石の森ってやつ?化石の森というぐらいだから、もう少し巨大な丸太の岩がゴロゴロ転がっているのかと思っていたが、丸太というより、半分くらい灰色の砂に埋まった切れ端が、ポツンポツンと点在している感じ。


  周遊道路から見下ろす景色もいいが、歩いて石化木を間近で見てみたい…と思っていたら、ちゃーんと灰色の砂岩丘の谷間に降りていく遊歩道があった。砂岩丘を10~20mほど下り、谷底をぐるりと一周するトレイルのようだった。20~30分もあれば戻ってこれそうだ。水分を持ってこなかったが、これくらいなら大丈夫だろう。


  谷底に立つと、頭上から容赦なく照りつける太陽の光で、不毛の砂丘と石化木に落とす影もシャープだ。風もないのに、汗ひとつかかない。乾燥し切った空気を伝わってくる物音もない静まり返った世界。なんだか月か火星にたった一人で放り出されたような。奇妙な心細さ。

  いたるところに石化木が転がっている。いろんなところから石化木が顔を出す谷間を縫う小道を歩く。音もない、刺すような日差しにさらされた灰色の世界をたった一人ぼっち。思わずちょっと早足に歩いてしまう。

  よく見ると、地表に顔を出したばかりのもの、地表に出た部分がひび割れ斜面からずり落ちかけているもの、小高い平地に乗っかっているので長い塊のままひび割れせずにすんでいるもの。ただ転がっているように見える石化木も状態はさまざまだ。でもいったん地表に現れた石化木のほとんどは、風化が進むと自らの重みに耐えかね、ひびが入り、やがて1m前後で割れ欠けていくようだ。


  石になった木が、木の形をとどめていられるのはそれなりの条件が重ならないと難しい。ちょっとでも化石の下の土砂の風化が不均衡になり、傾斜やゆがみが出来ると、微妙なバランスが崩れ、自分自身の重みに耐えきれず割れてしまう。






  だから小さな川をまたいで架かる長さ12mの一本木の橋のように横たわる石化木はもう奇跡としかいいようがない。Blue Mesaに続いて訪ねたAgate Bridgeは、崩壊を心配して1917年に下部をコンクリートで補強されてしまったが、奇跡の姿をかろうじてとどめていた。




  Agate Bridgeのすぐ西にあるJasper Forestには、結構大きな3、4mはありそうな化石になった木や、青や赤、オレンジに黄色、白など鮮やかな色が入り混じった宝石のように見える木の化石が転がっている。






  いや、宝石のように見えるのではなく、Jasperいうのは石英でできたまさに宝石の一種として、碧玉という名前が日本名でも与えられている。一帯の化石になった木は、宝飾品として19世紀から20世紀初頭ごろ乱獲された歴史があるのだと、展望台に立つ説明版にあった。

  さらに南下する。次は化石になった木がごろごろ転がる中を縫って続くトレイルを歩くCrystal Forest=水晶の森。Jasper Forest とはよく似た化石が転がっているが、その密度が違う。10分や20分では歩きつくせないほどのなだらかな丘陵地一面、どこもかしこもゴロゴロと石が転がっているから圧巻。




  同じ化石になった木でも、いかにも木だ!とすぐに分かるもの、年輪の輪がそのまま化石になったもの、赤や青や黄色など色鮮やかな石で覆われたもの。さまざまな化石になった木があちこちに転がっている。「化石の森」にやってきた実感がわいてきた。

 


 このあたりで、少しだけ化石の森に関する地学の知識をまとめておこう。時代は今から2億2500万年前、三畳紀後期、当時大群生していた森の木が洪水などで倒れ、次々と積み重なり、そこへ火山灰をたっぷり含んだ土が水と流れ込み厚く土砂が覆う。そんなことが何度も何度も繰り返され、地下深くに眠ることになった森の木は、火山灰に含まれていたケイ酸などが水に溶け、長い時間をかけ二酸化ケイ素として木の成分と置き換わり、石になっていった。



  さまざまな色は鉄やマンガンなどの鉱物と二酸化ケイ素が反応して生まれたものらしい。地下にはまだまだ、何百メートルも二酸化ケイ素に置き換えられ、石になった木が眠っているという。

  ということで、正確に言うと、木が石になった=石化木というのは正しくなくて、樹木が原型を変えずそっくり二酸化ケイ素という硬い物質になったということで、ケイ化木というのだそうだ。

  ちなみに二酸化ケイ素で出来ている代表的な石=鉱物が石英、石英のうちでも特に透明度の高いものがクリスタル・水晶とよばれている。

  化石の森のケイ化木は19世紀から20世紀初頭ごろまで宝飾品として採取され、一帯はダイナマイトで爆破されるなど乱獲されたこともあったが、1906年にnational monumentに指定され、その後national parkとなり、現在は貴重な遺産として保護されている。



  暑さでヘロヘロになりながらも、Crystal Forestのケイ化木群でちょっと気力を奮い立たされ、さらに南ゲートの近くまで来ると、さらにさらに、何と!直径軽く1m以上、長さ数メートル、木の形がそのままで巨大な石になった化石群が、ゴロゴロと待っていてくれた。これこそ化石の森だ!とさらにテンション・アップ。

  Giant Logs と名づけられたこの一帯、一周10分か15分ほどのトレイルの周辺には、根っこ部分と思われるところまで化石になった巨大な化石まで転がっている。Crystal Forestからそれほど距離が離れているわけではないのに、同じケイ化木でも石の色や様子が少し違う。こちらのほうが、なんだか樹木らしさがより色濃く残っているような気がした。



  そうそう、そんな中でも、この周辺にはサボテンの仲間らしい植物がかなり目につきました。いよいよ、ディープなアリゾナに近づいて来たようだ。


  太陽はかなり沈み始め、時計の針も午後5時。かなりいい時間。本日のホテルは公園から1時間ほどの、Show Lowという町。


  ペトリファイド・フォレストPetrified ForestからツーソンTucsonへ、その路線上にあるホテルを探していたら、出てきたのがこの町。どんな町なんだか…怪訝な思いで地図を見ると、結構な交通の要衝のようだった。









   南ゲートからUS180へ出て南東へ。AZ61を経てUS60で西へ。砂漠の乾燥地帯からちょっと山へ入る。現れた緑豊かなけっこう大きな町にびっくり。さらに、ここのモーテルが67ドルというのに、何から何までそろって、部屋もゆったり。今回のトップ3入り確実かも、というほどの充実モーテルだった。

  ビビル相棒の日記には

    とても安いのに感じがよいフロント。部屋広く、バスタブ付き。他の電化製品もそろう。フロント      でこちらの名前を言う前に「Tadashi」と言われたのも、これで17泊間泊まったうちで初めてのこ      と、驚いた。

   すぐ近くにはチェーン店の大きなスーパーなどもある。めっけもの。歩いて行けるエリア内のレストランにも事欠かなかったが、本日の夕食はあえてカレー。

   ロスで、友人の知人から「3週間も旅行していたら日本食が懐かしくなるから」と頂いたレトルト・カレー&白いご飯。でも日本食が恋しい、なんてことは一度もなくここまでやってきた。残り後2泊、そのまま持って帰るのも申し訳ないし…ということで、スーパーでサラダとワインを買い、部屋にあったレンジでカレー&ライスを「チン」して、ビールとワインをいただきながら、ノンビリと部屋食でした。


2013年12月1日日曜日

アメリカ西部の旅
2012年6月7日



朝からツーソン東郊外にあるサワロ国立公園Saguaro National Parkの東地区Rincon Mountain Districtへ。カクタス・フォレスト・ドライブCactus Forest Driveを一周、途中小一時間ほどのサボテンが群生するトレイルを散策し公園内の東屋で早めの昼ご飯。
東から西へツーソンの町を横切り、途中で道に迷いながら西側の公園近くの「オールド・ツーソンOLD TUCSON」へ再挑戦したが、今日もクローズ(夏休みでした)。
公園めぐりはギブアップして、市内のコングレス通りCongress Street とストーン通りStone Avenueに囲まれた旧市街地周辺を回り、アリゾナ大にあるアリゾナ州博物館Arizona State Musiumへ。
明日は朝6時出発で一気に、カリフォルニア州ベンチュラ郡Ventura County のゴールを目指す。


走行距離:99マイル

宿:アリゾナ州 Red Roof Inn Tucson North(連泊)
給油:$30 ツーソン市内のサークルK
夕食:メキシカンのLa Parrilla $28 
入場料: 博物館 $8


 前日の車のトラブルで、気が重い。今日一日、とにかく無事に終えて、何としてもロスにたどり着かねば。メキシコ国境の町めぐりなど、最後の一日を目いっぱい楽しむプランはあったがすべてボツ。穏やかに、慎重に…。
 サワロ国立公園Saguaro National Park東部地区Rincon Mountain Districtはツーソン市街地の南東部にあるので、モーテル前のIna Roadを東へ向かう。公園に1周5、6マイルの Cactus Forest Drive があり、その道路に沿って短いトレイルが2カ所ほどある。そのトレイルを歩いてみたいので、少し早めに出た。ツーソン市街地を南下しながら西から東へ横断することになるので、少し難度が高い。


 スワン・ロードSwan Roadで右折するはずのところを間違えて、しばらく行ってからUターンしたり、バタバタ。公園へ着いたのが9時過ぎ。すでに暑い。


 ビジターセンターから右回りでCactus Forest Driveをゆったり巡ってDesert Ecology Trailのトレイル・ヘッドへ。整備された道に沿ってさまざまなサボテンが葉肉を広げる中をのんびり歩き出す。

 植物は苦手、ましてサボテンなんてチンプンカンプン。それでも大きなうちわのようなやつ、細長くて白い細かなレースを覆ったようなやつ、サワロのような巨大なやつ、棘が付いたきゅうりのようなやつ。乾燥した大地には意外にも結構多彩なサボテンが息づいている。しかし、名物のサワロはあまり見かけない、見かけても大きなのは少ない。


 かつては巨大なサワロが林立していたのだが、このあたりのサワロは1937年と1962年の寒波で甚大な被害を受け、巨大サワロは壊滅状態になったらしい。

 寒波と生態系を解説した案内板には、巨大なサワロが林立していた様子の写真が残されている。

 ベンチのある休憩所まで行って、帰りは雨季には川になる窪みにそった道を出発地点まで戻ってくる。わずか20分あまりのトレイルだったのに「もしここで私が倒れたら…」ふと余計なことが頭をよぎる。暑い夏は汗をかく、という季節感で60年以上生きてきたおじさんが、ジリジリと体幹まで熱が迫ってくるような暑さなのに、一切汗をかかない、サラサラでジリジリの暑さに、心も未体験の反応しているのか。

 ループ状のCactus Forest Driveの北端を過ぎたあたりから、少しずつサワロが増え、大きなサワロも目につきだしたように思う。両手でガッツポーズしてすっくり立った胸のあたり?に、ポッコリ丸い小さなサボテンがくっついている感じはまるで「おっぱい」。


 もっと大きななサワロのてっぺん付近には濃紅色の花が咲き、鳥がその花に止まって花をついばんでいる。昨日も西部地区で見かけた光景。そうそう、サワロの幹にはキツツキなどの鳥が巣を作ったりするらしい。


 熱波が覆うサワロの林に少したたずんでいると、「シーーン、シーーン」というような不思議な音が、サワロの林に静かに響き渡る。そんなに大きな音でもなく、なんだか寂しげ「シーーン、シーーン」しばらく休んで再びに「シーーン、シーーン」しみわたるように「シーーン、シーーン」。


 何回か音の主を探して見渡したが、どうも何の音なのか見当もつかない。やたら聞こえるわけでなく、あっちで「シーーン、シーーン」と聞こえたかと思うと、しばらくして別の方角から「シーーン、シーーン」。

 やっと見つけた。予想もしていなかった意外な「主」の仕業だった。音の出る方向を見ていると尖った棘を付けた木に、何とセミがとまっていた。もう一度、「シーーン、シーーン」確かに体を揺らしていた。

 あのうるさい、しかも団体でにぎやかに鳴いている日本のセミと姿かたちはそっくりなのに、アリゾナのセミはこうも違うものか。


 車で回っている人はあまり見かけないのに、こんなに暑さの中、自転車で坂道を上っている人が結構いる。たいていは一人、感じからするとご近所の人が、朝の散歩代わりに自転車をこいでいるという風。なかなか人気のサイクリング・ロードらしい。
 Cactus Forest Driveのループ道路の東縁を北から南、最南端にあるJavelina Picnic Areaへ。周辺にはループのトレイルもあるので、少し散歩してもいいかなと思っていたが、相棒は窓から照りつける太陽の熱だけで、もうバテバテ。

そんな様子を見て、まだ11時を回ったばかりだが、早めに切り上げて「オールド・ツーソンOLD TUCSON」へ向かうことにして、駐車場そばにある屋根のついた休憩所でいつものサンドイッチ&オレンジジュースの昼食にする。
 この旅で毎日、お世話になったクーラーボックスもこれでお役御免。Grand CanyonやYellowstoneのような人気の公園内でないと、簡易レストランcafeteriaどころか、ジェネラルストアgeneral storeもない。今回のような、結構タイトなスケジュールで移動する必要がある旅では、好きな時に食事ができる有難さが身に染みた。

 事実、あちこちの駐車場や、ピクニックエリアで、クーラーボックスを囲んで食事している人たちに出会った。3週間ほど、ほとんど冷えたオレンジジュースか牛乳に、チーズを挟んだ薄切りパン+ミニトマトのメニューだったが、ほとんど苦にならなかった。それほど毎日が充実していたんだと思う。本当にお世話になりました

 「オールドツーソンOLD TUCSON」のあるサワロ公園西地区へ向かう。東地区と西地区はツーソンの東外れと西外れに位置するので、今度はツーソン市内を東から西へ横断する

 大きな都市と思っていたのに、実際、ツーソン市街地を走ってみる想像以上にゆったりのんびりした町だった。というのも、街のど真ん中を走っているはずなのに、ビルらしいものを見かけない。商業用の建物は平屋かせいぜい2階程度で倉庫のようにばかでかくて、それに広大な駐車場が建物の周囲を取り囲んでいる。商業用施設に混じって広大な庭を持つ個人の家が点在。市街地だから空き地はないが、まるでロス郊外の住宅街のようなのんびりした町並みが街の端から端まで続いている。

 持っていたラフな地図(州単位の地図に付いていた主な都市の市街地地図)によれば22番通り22nd Stで横断し、I-10を過ぎて丘陵地を登ると、公園へ抜ける道があるはずだったのだが、何と、いかにも最近開発されたばかりの高級住宅街に迷い込んでしまった。おしゃれな住宅街をグルグル、同じようなところを何回もを楽しんだが、仕方ない、一度I-10まで戻って、公園内を走る西ゲート・パス通りWest Gate Pass Rdに続く大通りまで迂回。

 やっと西ゲート・パス通りWest Gate Pass Rdへ。公園内のサボテンのまばらな林が続く穏やかな丘陵地をうねるように登り、峠を越えると道路の右手前方に、緩やかに丘陵地の広大な裾野が広がっていた。ほぼ180度の超ワイドでまばらなサワロの林が、丘陵地に沿って穏やかに下りながら延々と続いている。骨の髄から加熱されるような強い太陽の光で、はるか彼方は霞んで定かではないが、数キロにわたってズーッと続くサワロのまばらな林を見下ろすと、いかにも、ツーソンに立っているぞという実感がわいてくる。こんな熱気が覆う雄大な景色、素人監督だってウエスタン映画のワンシーンにでも使いたいぐらいだ。
 キニー通りKinney RdとのT字路で左折するとすぐに「オールド・ツーソンOLD TUCSON」。当然、人っ子一人いませんでした。「えー」思わず絶句。時間はまだ午後1時ごろ。これから一体どうする?車の中で、しばし呆然でした。しかし、事前に調べておいたアリゾナ南部の他の場所は、メキシコとの国境に近い町や公園などで、いずれもかなり離れている。車のアンダーカバーのトラブルを抱えている状況から、万が一のことを考えると遠出は避けたい。
 すると、ツーソンTucson市内ということになるが、選択肢はほとんどない。あわててAAA発行のアリゾナ州のガイドブックを繰ってみる。市内にアリゾナ大University of Arizonaがあり、そこにアリゾナ州博物館Arizona State Musiumがある。ツーソンのダウンタウンを見て、博物館でアリゾナ州のお勉強をすることにした。


 来た時とは逆、西ゲート・パス通りWest Gate Pass Rdを抜け、スピードウエー大通りSpeedway Blvdからストーン通りStone Avで南へ下る。このストーン通りStone Avと南北に走るアラメダ通りAlameda StやコングレスCongress Stが交わる周辺が、ツーソンの町の発祥の地。スペイン人によって拓かれ、1775年にツーソンという町が誕生した当時、要塞の壁に囲まれていた、町のルーツにあたる一角

  鉄道の線路を通すために地下道になった道を抜けると正面にやっと市街地らしい高層ビルが見えだした。

  銀行の看板が見えるビルがあるのがアラメダ通りAlameda Stペニントン通りPennington Stの先が市役所のあるコングレス通りCongress St、さらにブロードウエー大通りBroadway Blvdと、4つほど高いビルが並ぶ通りを通過するとビル街は終わり、クリーム色っぽいレンガ造り、両脇に鐘楼を配した正面ファサードが印象的なメキシカン・ゴシックの聖アゴスティーニ大聖堂St,Augustine Cathdralが右手に見えてくる。これで町の中心街はほぼ見尽くした感じ。

  超スロースピードでキョロキョロ通りを見回しながら2度ほど通ってみるが、周辺はビジネス街で、カフェテラスのような店が並ぶショッピング街のようなところも見当たらない。こりゃ町歩きどころじゃあない。そのまま6th Avで北上し、大学大通りUnivesity Blvdを東へ向かうと突き当り大学University of Arizonaへ。
 
  迷うほどもなく、すぐ左に州博物館が見えてきた。入場料一人5ドルだったが「シニアは割引だけど」受付の品のいいシニアの女性に言われ、「そうなんですよ」。一人4ドル、二人で2ドル分助かった、というより、優しく声をかけてくれる応対に、相棒と二人してちょっといい気分。もちろん、駐車代込み。
  アリゾナ州のネイティブの歴史や文化を中心にした展示物で、特にアパッチ族のジェロニモについての写真などの展示に相棒は痛く感動した様子。白人と戦い、ついには投降、故郷に帰ることは許されず、抑留先で亡くなったジェロニモの一生を知ることができただけで、ここに来たかいがあった、相棒。
  涼しいところでのんびり午後5時の閉館近くまで見て回ってモーテルへ戻ると、前庭にあるプールが大盛況。グラマラスなご婦人が3、4人で盛り上がっている。そうか、そういう手もあったんだよね。でも私たち、水着の準備まではしてこなかった。5月から6月にかけての日本の陽気だと、水着という発想にはなかなかならない。でもアリゾナは確かに「オールド・ツーソン」も夏休みに入るくらいの盛夏だった。
  この日の最後になる、車のアンダーカバーのチェック。緩んでいる様子はまるでない。これなら、少しくらい寄り道して帰ったとしても大丈夫だろう。一時は、最悪の事態として、レンタカー会社のツーソンの営業所へ車を持ち込むことも考えていたが、とにかくベンチュラ郡Ventura County(カリフォルニア)までは帰れそうな感じ。
  私が立てたオリジナル・プランは、明日はもう一カ所、サボテンの公園に立ち寄り、ラッシュ時間をさけて深夜にLA帰りのプランだったが、相棒からは「もう暑くて、サボテンなんていいから早くLAに帰りたい」強い要望。私も車のアンダーカバーのことでは相当不安があるだけに、素直だ。早出の朝6時に出て、夕方のラッシュ前にLAの市街地を抜け、夕食前にたどりつければ最高。
  夕食は、AAAのガイドブックに載っていたちょっとおしゃれなメキシカンへ、車で出かけた。夕食に車で出かけるのは今回の旅では初めて。いい感じの店だったが、残念ながらアルコールが飲めないものだから、つまらない。最後の日ぐらいもう少しリッチな時間を、というプランもなくはなかったが、今回は最後までこの旅のスタイルを貫くことにした。
  アメリカのワイルド・ウエストを朝から晩まで巡り、歩く、ストイックなドライブ旅行。辺鄙な国立公園をできるだけたくさん、だから目いっぱい効率よく回ろうと、朝も昼も自家製サンドイッチ。軽くいっぱいも部屋で缶ビール。

  でも、それが少しも苦にならなかった。毎日が驚きと感動の大自然の連続で、それだけで十二分に充実し切った一日の連続だったからだろう。

  ちょっとハードでストイックな旅にふさわしい、ラスト・ディナーだったかも。
  部屋に戻って、缶ビールをもう一缶。アメリカ西部の公園めぐりドライブの旅、最終日は結構シマラナイ一日だったけどどうやら無事に帰れそうだ。楽しい思い出いっぱいで元気にLAまで帰れるだけで最高かも。さあ、明日はどこにもよらず、ひたすらLAです。